2019年


ーーー9/3−−− 修理した老眼鏡


 
安物の老眼鏡を使っているという話は、以前書いた。その老眼鏡をいくつ持っているか。工房に3ケ、パソコン事務机に2ケ、寝室に1ケ、車の中に1ケ、合計7ケである。何故そんなにあるのか。いろいろな場所に配置してあるのは、持ち運びをしなくて済むようにである。仮に1ヶの老眼鏡しか無ければ、それを携行しなければ行く先で困る。しかし、老眼鏡はフルタイム使うものでは無いから、つい持たずに移動してしまうことがある。そういう場合は、元あった場所へ取りに行かねばならない。また、置き忘れることも多い。元の場所が分からなくなって、探すこともある。当初は1ケしか持っていなかったが、そういう時間のロスがとても多いことに気が付いた。そこで、老眼鏡の使用が想定される、それぞれの場所に置くことにしたのである。

 それは妥当な方策だと理解して頂けるだろう。では、同じ場所に複数置いているのは何故か。それは、安物の老眼鏡が壊れ易いからである。壊れるのに備えてスペアを用意しているというわけではない。壊れたものを修理して使ううちに、数が増えてしまったのである。

 眼鏡はツルの付け根、ちょうつがいの場所で壊れることが多い。そこだけ直せば使い続けられる場合は、修理をする。修理と言っても、折れたり割れたりした部材を元通りに直すことは不可能。強引な手段で接続するしかない。右の写真で、手前の二つは添えものをあてがってテープでグルグル巻きにしたもの。奥のものは、針金を使って接続したもの。いずれも細かい作業なので、簡単では無い。作業には、別の老眼鏡が必要である。

 こんなやり方だから、眼鏡を折りたたむことはできない。しかし、持ち歩くわけではないから、特に問題は無い。

 修理をしても、なんだか使い心地が悪いと感じることがある(当然だが)。そこで新しいものを買ってくる。それがまた壊れて直す。それやこれやで、数が増えてしまった。

 最近、また新しい老眼鏡を購入した。今回はこれまでより高い価格帯のものを選んだ。工房のように、長時間集中して使用する環境では、修理した眼鏡では目に悪いような気がしてきたからである。

 注意深く修理をしても、なかなか左右対称の開き具合にならない。眼鏡が傾けば、光軸がずれるだろう。それが目にとって良くない影響を与える可能性があるのではないか? と考えたからである。わずか千円程度をケチって、大事な目を傷めたら馬鹿らしい。そして、どうせ買うなら壊れにくい方が良いと思い、多少高価なものにしたという次第。

 しかし、よく言えば物を大切にする性格、悪く言えばケチな性格である。この記事をパソコンで書きながら使っているのは、いまだにテープで補修した、不安な老眼鏡である。




ーーー9/10−−−  塩狩峠


 
三浦綾子の小説「塩狩峠」を読んだ。話のストーリーはおおむね知っていたが、読むのは初めてだった。やはり読んでみたインパクトは大きかった。

 話の中で、主人公が、職場で盗みを行った同僚を必死になって上司にとりなす場面がある。上司はその熱意に感じて、罪を犯した男に対して寛大な処置をする。しかし、男は主人公に対し、卑屈な態度をとり、偽善者よばわりをした。その場面を読んで、私はなんともやるせない気持になった。おそらく読んだ人の多くは、理不尽さを感じたと思う。

 やるせない寂しさの中で、私は以下のような言葉を思い出した。

 「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。

 あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。

 目的を達成しようとするとき、邪魔だてする人に出会うでしょう。気にすることなく、やり遂げなさい。

 善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、善を行い続けなさい。

 あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく正直で誠実であり続けなさい。

 助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく助け続けなさい。

 あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。気にすることなく、最良のものを与え続けなさい」

                                                   (マザーテレサ)





ーーー9/17−−− なんも


現在放映中の朝ドラは、北海道が舞台だが、主人公の母親などが「なんも」とか「なんもね」と言う言葉を使うことがある。

 相手が「ご苦労様」と言えば「なんも」と返す。「ありがとう」と言えば「なんもね」と応える。標準語に置き換えれば、「いえいえ」とか「ちっとも」と言うことになろう。まあ、軽い受け応えの言葉である。この言葉を聞いて、ある話を思い出した。

 技術専門校の木工科に通っていたよき、クラスメートの友人に北海道出身の男がいた。年齢は私と同じくらい。その友人が、北海道で暮らしていた頃にこんな面白い事があったと話をした。

 近所に一人のおばさんが居たのだが、その人が「なんも」という言葉を頻繁に使うのだと。いや、頻繁と言うより、口から出る言葉が「なんも」だけだと言うのである。

 朝、顔を合わせて「お早うございます」と声をかければ「なんもね」と言う。「寒いですね」に対して「なんもー」と返す。「お体の具合はいかがですか?」と聞けば「なんも、なんも」と応える。「それではお元気で!」と挨拶をすれば「なんもね!」と返事をする。

 日常の挨拶を、「なんも」だけで済ませてしまうのである。「便利な言葉があったものだ」と友人は言った。




ーーー9/24−−− 伝統工芸展


 
第66回日本伝統工芸展に応募をした。結果は選外だった。予想した通りだったので、残念でも悔しくもない。では何故、安くはない出品料を払って、この応募をしたのか? 

 木工家具作りと伝統工芸の木工では、木工という言葉は共通でも、全くと言ってよいほどジャンルが違う。だから別の世界ということで、これまで関心は無かった。ところが私に象嵌と漆塗りを教えてくれた木工作家のKさんが、しきりに応募を勧めてくれた。ちなみにKさんは伝統工芸展に十数回入選している、その世界の重鎮である。

 入選、選外を問わず、出品作品の講評をする会が催されるのを知って、出掛けて行った。前日に千葉県内の指定場所で作品を受け取った。当日は日本橋三越で本展を見た後、都内某所の講評会場に作品を持参した。出品者研究会と題されたその会合は、木竹部会が主催するもので、出席人数は50名ほどだった。

 会議室の前方に、9名の監査委員が並んで座っている。その前に布を掛けた展示台があり、講評を希望する者は、そこに作品を置く。始まる前に司会者が、「作品を持って来られた方は手を挙げて下さい」と言った。数名が手を挙げたのを見て、私もおずおずと手を挙げた。手を挙げたのは10名だったので、一人当たり5分間の講評ということになった。

 希望者が次々と展示台の周りに集まり、一人ずつ交代で作品を置いた。他の出席者もぞろぞろと前に進み、展示台を囲んで、監査委員の発言に耳を傾ける。持参した作品の講評を受けるのは、全て選外となった人たちである。しかし、いずれもレベルが高い。ちまたでは滅多にお目にかかれないグレードの作品である。それに対して監査委員はかなり手厳しい指摘をする。私は怖気づいて、作品を出すのを止めようかと弱気になった。

 しかし気を取り直し、終盤近くになって前に進んだ。展示台の上で作品を覆う布をめくりながら、「私は普段は家具を作っています。場違いだとは思いましたが、今回初めて応募いたしました」と言い訳がましい事を口にした。

 監査委員から開口一番、作品のサイズが小さいと言われた。この公募展でこれまで、どれくらいのサイズの物が入選の対象になったか、調べてみるくらいの事はすべきだとも言われた。別の委員からは、裏から見た台輪(箱の下縁に回した部材)の巾が大き過ぎて、伝統的な寸法バランスではないとの指摘を受けた。他には特に欠点を指摘するコメントは無かった。サイズが小さいということで、評価の対象外という事だったのか。それでも、「本業が木工家具だからと言って、場違いなどということはない」、「今回チャレンジしたのは良かったと思う」、「次回以降も出品して欲しい」などとの、慰め的なご意見も頂いた。

 ともあれ、いろいろな作品と作者を目の前で見て、それらに対するオーソリティーの評価を聞いて、とても勉強になった。Kさんの言われた通り、応募してみた価値はあったと思う。少なくとも、得がたい経験にはなった。

 * 私の出品作品は、YouTubeの動画で見られます(YouTube→創作木工家具の大竹工房→象嵌小箱)